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自己紹介第1部 花の女子大生になるまで 

「余計なことは、見ない、聞かない、言わない」がモットーの、コーチングスペースさんさる、オギハラ(荻原)の自己紹介を始めます。

 私は、生まれも育ちも長野県の東部に位置する上田市というところです。周りには浅間山、湯ノ丸山、烏帽子岳、蓼科山などを見ることができ、美ヶ原や菅平高原、軽井沢は車で1時間足らずで行けるところです。近くには、日本で一番長い川、信濃川の上流部である千曲川も流れています。風向明媚で、空気もおいしい、星もきれいで果物がおいしい、そんなところに暮らしてます。

 地元の小中学校を卒業してから、上田市内の、当時は女子高だった上田染谷が丘高校に進学しました。地域では有数の進学校だったんですが、卒業後は実家の町工場の手伝いをすることに決め、進学はしませんでした。1年ほどした後、やはり社会の風に当たりたくて、会社勤めを始めました。

20代中ごろに結婚。出産を機に会社を辞め、子育てをしながら実家の仕事を手伝っていました。長男に嫁いでいながら、実家の母に娘の世話を見てもらいながらの実家の手伝い。舅姑の感情はいかばかりかと・・・。事実、いろいろなことがありました。実家の母親が義父母に頭を下げたこともありました。このとき、私が一番反省したことは、『親孝行とは、どんなに高価なプレゼントをするより、親に心配させないことだ。』ということでした。そんな両親も、30代で母が、7年後にが亡くなりました。

両親が亡くなった後、実家の仕事を辞め、外にパートに出るようになりました。40代に入った頃です。

ちょうどその頃から、自立を考えるようになりました。ほとんど上田から出ることがなかった私が、ひとりでお江戸に出かけるようになったのは、40歳を過ぎたころからでした。何とかしなければ、今、何とかしなければと、漠然と考えていたように思います。焦りというか、このままで終わってしまうの・・・、みたいなね。そんな感じです。

それからは、仕事をしながら、自分がやりたいと思うことをいろいろやってみました。(理解をしてくれた家族には感謝かな?)。結論から言えば、自立にはつながらなかったんですがね。何か夢を追いかけていたのかな、とも思うんですが。そうこうしながら、パート勤めの傍ら、どこかで好きなことで自立の道を探っていました。

今考えると、社会的に成功したかったのか、認められたかったのか、何だったんだろうか?。自分は何を求めていたんだろう?って・・・。あの頃の私は、独りよがりで、自分で何とかしようとしていて、相談する人もいなくて、自分の気持ちを素直に表現することが下手で、ひとりで空回りしていた、そういう状態でした。そんな自分の不安定さは、家族にも伝わるのもです。大なり小なり、子どもたちにも影響を与えたと思います。

いろいろな仕事をしました。深夜のスーパーのレジ打ちとか探偵事務所の事務員とかもしました。そうこうして、50代に入って医療事務の資格を取って、地域の拠点病院の夜間の受付兼算定の仕事をするようになったんです。

夕方の5時から夜中の12時まで、月に12~13日くらいの割合で、パート勤務をしました。緊急病院ではなかったので、フルで忙しいということはほとんどなく、空いた時間をどう使おうかといつも考えていました。救急車が入ってきたときはバタバタするのですが、来ないときは静まり返った病院の夜間窓口でした。

いろいろな患者さんや家族の方に会いました。そこでふと思ったのです、『私は気難しい舅姑に仕えて、自分はかわいそうだなって思っていたけど、世の中には、私の知らないことがたくさんあるんだ。私はむしろ幸せな方かもしれない。好きなこともできてるし・・・』ってね。

これらの経験に加え、仕事の空き時間をどう使おうかと考えて思いついたのが、私の次のステップにつながっていったのです。